◎はじめに
浪速区内の小学校の校歌を集め、その歌詞の中にみられる地域の歴史を調べるコラム。前回の橋爪節也先生からのヒントをもとに、戦前から戦後の校歌の歌詞を比較してみました。
◎戦前から戦後の校歌
私たちが浪速区内で集めた小学校の校歌は、すべて戦後に制定されたものでした。戦前の校歌が残っているか調べたところ、立葉地活協の会長が、小学校の120周年記念誌に載っていた立葉小学校の戦前の校歌を提供してくれました。それ以外で残っていないか調べましたが、なかなか見つかりません。そこで、大阪市立中央図書館にメールで相談してみると、大阪市城東区の榎並・野江地域の歴史に関する書籍に戦前から戦後にかけての小学校校歌が紹介されていることが分かりました。それぞれの校歌は下記の通りです。なお、太平洋戦争(1941年)より前を戦前とします。
◎戦前の校歌(1)
1.東成郡榎並尋常高等小学校校歌 1924年(大正13)制定
香りも高きくすの木の 立てしいさおは末ながく
われらのかがみ教えなり 正しき勇気身にしみて
いざや守らんもろともに いざや守らんもろともに
その名も高し榎並の荘 ありし昔をしのびつつ
なみいるわれらすこやかに 素直の徳をたたえつつ
いざや伝えんもろともに いざや伝えんもろともに
にぎおう煙よもにみち なにわの栄えいやまして
国の光をそえぬべし たゆまずつとめてかぎりなく
いざやはげまんもろともに いざやはげまんもろともに
1の校歌について、橋爪先生から、「3番にある『にぎおう煙よもにみち』の部分で、大阪が『東洋のマンチェスター』と呼ばれた時代の記憶を呼び覚ます」とコメントを頂きました。日清戦争(1894-1895)後の大阪は、紡績業、織物業や鉄道業を中心に発展したことから、産業革命で栄えたイギリスのマンチェスターにちなんで「東洋のマンチェスター」と呼ばれました。ここでは「煙」という言葉を繁栄の象徴として、四方に煙が広がる様子から当時の大阪が発展する姿を表していることが分かります。
現在の西淀川区にある姫里小学校の校歌でも、「並ぶ煙突とぶ煙 西大阪の工業地」という一節があり、「煙」という言葉が大阪の発展の象徴として用いられています。
◎戦前の校歌(2)
2.大阪市榎並国民学校校歌 1939年(昭和14)認可
すめらぎの みこと畏(かしこ)み 若竹の こころ直に輝ける
御代(みよ)の御民(みたみ)と 教草 いざやともに 摘みなむ
淀川の 流れやまざる その水に 望みはるけく 進みゆく
御代の御民と 教草 いざやともに 摘みなむ
天守閣 朝なゆふなに 仰ぎつつ 高く雄々しく 類なき
大き御民と 教草 いざやともに 摘みなむ
2について、橋爪先生は、「戦争へ向かう時代の内容ですが、1931年(昭和6)に復興された大阪城天守閣が登場するところ、地域で目に入るシンボルを取り入れた感じですね」とコメントされました。当時最新の鉄骨鉄筋コンクリートの手法を用いて再建された大阪城の天守閣を描くことで、歴史への誇りや当時の建築技術の力を示していることがうかがえます。また、「すめらぎの」、「みこと畏み」、「御代の御民」といった天皇を敬う表現が多く使われており、第二次世界大戦が勃発した当時の世相を反映しているといえます。
「大阪城(錦城)」は、現在の小学校校歌の歌詞にも用いられており、大阪のシンボルとして深く親しまれていることが分かります。下記に一例を紹介します。
・城北の空澄みわたり ここ友渕に鐘ひびく(都島区 友渕小学校)
・錦城高くそびえたる なにわの北に生い立ちて(東淀川区 菅原小学校)
・淀川清く陽に映えて 金色まぶしい大阪城
けだかいすがたあのように こころの珠をみがこうよ(生野区 勝山小学校)
・つながればつながれば おのおの光る 大阪城の空の星 大阪城の空の星(城東区 東中浜小学校)
◎戦後の校歌
3.大阪市立榎並小学校校歌 1963年(昭和38)制定
えなみのえは えがおのえ
きれいなお花も わらってる
きょうも一日はりきって 元気でいこう一、二、三
えなみのなは なかよしのな
こまったときには たすけあい
僕も私も肩くんで 元気でいこう一、二、三
えなみのみは みんなのみ
うんどうじょうは せまいけど
空は広いぞ胸はって 元気でいこう一、二、三
3の歌詞では、「えがお」、「なかよし」、「たすけあい」、「みんな」、「空は広いぞ」といった友愛や平和を表す言葉が多く使われており、校歌が戦後に作られたことがよく分かります。1や2の校歌と比べると、平易で分かりやすく、明るい印象の言葉で作られています。
◎参考文献
・「榎並と野江の歴史 ―近郊農村から都市への発展―」著者 大森久治、泰流社、昭和51年